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【第119回】みちびと紀行~日光街道を往く(古河~間々田) みちびと紀行 【第119回】

10月20日、木曜日、5:00am、古河宿「ホテル津賀家」さんで、日光街道歩き旅・第3日目の朝を迎えた。
テレビをつけると、天気予報は快晴。ただ、気温は一桁台で、今季一番の寒さだという。
ここまでの道のり、金木犀の香りをほんのり感じながら歩いてきたが、今日からは急速に秋が深まるのだろう。
ゴールの日光に着く頃には、紅葉が始まっているだろうか。

津賀家の4代目ご主人、塚原さんの写真津賀家の4代目ご主人、塚原さん

6:00am、チェックアウト。充電した身体にエネルギーがみなぎっている。
荷物をまとめて階下に降りると、こちらも朝から快活なご主人の笑顔が待っていた。
宿が快適だったのでお礼を言うと、「昭和57年に建てたのでもう古いのですが、そう言っていただけるとうれしいです」と、はにかむ。
築40年でも、大切に使っていれば、古さも「味わい」へと転じる。むしろ新しい施設より、なじんだ落ち着きがあってくつろげた。
創業はその頃かと訊くと、明治5年だとのこと。
「私で4代目です。古河の中心はここよりも西にあって、当初はそちらにあったのですが、2代目の祖父の代に火事で焼けてしまったのです。大正14年に町外れだったこちらに来ました」
時代はすでに街道から鉄道へと主な移動経路が移っていたから、JR古河駅の目の前にあるこの立地は、かえって商売に幸いしたことだろう。

「よくウォーキングの方や自転車旅行の方も来られます。幸い駅に近いので、間々田から電車でこちらに来て泊まり、翌日は間々田からまた出発する方もいますね」
なるほど、そういう風に宿を決めておいてもよかった。
実は今晩の宿は、自分でも何を血迷ったのか、宇都宮にとってしまっていたのだ。
Google Mapだと実測で約46km、歩行距離は、僕の場合、実際の距離よりも1.5倍くらいの長さで換算されるので、今日は相当な長距離歩きになってしまうだろう。
「宇都宮はさすがにきついかもしれませんね」
やんわりと言われて、あまりにも大雑把な計画を立てた自身に苦笑するしかなかった。
まあ、それでも日光街道を歩くのであれば不安は少ない。ここまで歩いてわかったが、食べものやトイレなど、休憩場所にまったく不自由しないからだ。いざとなれば並走する電車に乗って「ログアウト」できる。
「まあ、気楽に行きます」
「それがいいですね。お気をつけて、いってらっしゃい」
元気な笑顔に見送られた。

ホテル津賀家

古河駅前の通りの写真古河駅前の通り

駅前の通りを日光街道に向かって歩いていく。
僕の影が朝日を受けて、前方に長く伸びている。西へ向かっていることが少し奇異に感じた。
古河の旧市街は、南流する渡良瀬川の東岸に広がり、古くから水運で栄えた。
古河城の「城下町」ではあるが、城郭が岸辺に築かれたため、上級武士は低地に、町人は高台の土地に住居を構えた。しっとりと落ち着いた街並みだ。
この町を、しばらくぶらぶら歩くことにした。
日没前の宇都宮到着を潔くあきらめたことで、心に余裕が生まれていたからだ。

古河宿の高札場跡の写真古河宿の高札場跡
昔の面影が残る江戸町通りの写真昔の面影が残る江戸町通り
作家・永井路子の旧宅の写真作家・永井路子の旧宅

古河宿の中心だった本町二丁目を過ぎ、古い商家が軒を並べる「江戸町通り」を歩いていく。
その中の一軒に、「作家・永井路子旧宅」と彫られた表札がかかっていた。
NHK大河ドラマ『草燃える』の原作となった『北条政子』や『炎環』の作者だ。
彼女は、3歳から結婚して東京に転居するまでの約20年間、ここで暮らしていたのだ。
歴史小説といえば、従来は戦国期や幕末を舞台とするものが多かった。これに、新たに「鎌倉時代」を加えたのは、彼女の功績のひとつだと言われている。

この古河には、室町時代から130年間も「坂東の中心」としての古河公方が続いており、「鎌倉街道・中道」の起点・終点があったから、中世という時代に彼女が目を向けたのは、自然の成り行きだったのだろう。
さらに、彼女のもう一つの功績は、歴史の中の女性に、改めて「積極的な役割」を認めたことだ。
もし彼女が正しく史料を調べ、女性たちの生涯に光を当てていなければ、北条政子も単なる「悪女」で終わっていたのかもしれない。
ときに弱気になる武将たちを叱咤激励する妻たち。消極的に描かれることの多い「政略結婚」も、永井は、「平和の特使」として進んでその使命を果たそうとした強い女性を描き切る。
今の社会とはかけ離れたもののように思っていた武家の世界を、強い意志をもった女性が活躍する現代と本質的には変わらない人間の世界へと、想像をぐぐっと手繰り寄せてくれているのだ。

正定寺の赤門の写真正定寺の赤門

江戸町通りから路地を曲がると、正定寺の赤門が見えた。
江戸初期、家康、秀忠、家光と三代にわたって将軍側近として仕えた古河の領主、土井利勝が開いた寺だ。
古河は日光街道の要衝で、古河城は将軍の日光社参の際の2泊目の宿泊場所となっていたから、ここには重臣中の重臣だった利勝の拠点が置かれる必然性があったのだ。

土井利勝公の写真土井利勝公

土井利勝には、興味深い話が伝わっている。
彼は家康の御落胤だったのではないか、というのだ。
単なる「噂」というよりも、江戸幕府の公式の史書『徳川実紀(御実紀)』にも記されているほどなので、様々な点で信憑性のある「説」だったようだ。
土井利勝が家康公に容姿が酷似していたのは有名な話だったらしく、二代将軍秀忠の「傅役」に前代未聞の7歳にしてなったことも、その逸話に真実味を添えている。
血筋の真実はともかく、家康の期待に応える有能なブレーンで、なおかつ「気配りの人」でもあったらしく、将軍家だけでなく、諸侯からも慕われ頼りにされたという。
家康・秀忠・家光の徳川三代ばかりスポットライトが当たりがちではあるが、約260年間の平和な時代を築くことができたのは、幕府成立期の65年間という長期におよび、一貫して徳川の政治を中枢で担い、次々に施策を打った利勝の貢献によるところが大きかったに違いない。
現代ではネガティブなイメージで語られることの多い「長期政権」も、それに安住しない精力的な為政者がいれば、元来有効に機能するのだ。

正定寺の黒門、江戸の下屋敷から移築したものの写真正定寺の黒門、江戸の下屋敷から移築したもの

朝の古河の街をそぞろ歩く写真朝の古河の街をそぞろ歩く

陽がすっかり昇っても、吐く息は白い。
町歩きで、ウォーミングアップ完了。
清冽な空気の中を、宇都宮目指して、機関車のように北上していく。

野木宿の道標の写真野木宿の道標
野木宿には、かつて松並木があった写真野木宿には、かつて松並木があった

古河宿を出て約3km弱、「野木宿」に着いた。
非常に小さな宿場町だったらしく、「是より大平山道」と刻まれた日光脇街道を示す石の道標と、かつて松並木があったことを示す交差点の「松原」の地名が、往時を偲ばせた。

小山市に入った写真小山市に入った
間々田宿の写真間々田宿
間々田宿の本陣があった場所の写真間々田宿の本陣があった場所

小山市域に入ってから半刻ほど歩き、間々田宿に着いた。
「おくのほそ道」の旅で、芭蕉と曽良が2泊目に泊まった宿場町だ。
が、芭蕉は「間々田」の地名は一切記さず完全無視。
「曽良旅日記」でも「ママダニ泊ル」と書き遺すのみの寂しい扱い。
そもそも「間々田」という地名も、江戸と日光の中間に位置することからそう表記されるようになったらしく、どうにも「特筆するところのない」土地柄のようだ。
おまけに、火事にでも遭ったのか、本陣跡がすっかり更地になっていて寒々しい。
見どころや名所を渡り歩く旅ではないものの、間々田の印象がそれだけで通り過ぎてしまうのは、どうにも心苦しい。

創業明治5年西堀酒造の写真創業明治5年西堀酒造

交通量の激しい国道4号線を歩くのに少々疲れてくる。
西堀酒造から先は、脇道に入り、200mほど続く安房神社の参道を歩いていくことにした。
ひっそりと森に囲まれた道は、一足々々神域に近づくごとに、心が浄化されていくようだ。
社伝によれば、この神社の創建は第10代崇神天皇の御代のこと。
千葉県館山市にある「安房国一宮」の式内社・安房神社との関係が深く、主祭神は天太玉命(アメノフトダマノミコト)だという。
アマテラスが、閉じこもった天の岩戸から少し顔をのぞかせた際に、その御顔の前に八咫の鏡を差し出した神だ。
不思議に心が落ち着くので、しばらくここで休憩した。
「特筆することがない」と思っていたが、僕にとって間々田は、この神社とともに記憶されることになるだろう。

安房神社の参道を歩く写真安房神社の参道を歩く
安房神社の写真安房神社
小山宿はもうすぐの写真小山宿はもうすぐ

10:30am、小山宿が近づいてきた。
なかなか良いペース。
ゴールの宇都宮にはまだまだ遠いが、焦ることはない。
心の声に忠実に、気になるものに素直に反応しながら、街道を歩き続けた。

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