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【第106回】みちびと紀行~北国街道を往く(松崎、二本木、新井) みちびと紀行 【第106回】

曲がりくねる北国街道の写真曲がりくねる北国街道

蛇行しながら北国街道を下っていく。
関川から新井までの「中山八宿」、山道かつ豪雪地帯で難所と呼ばれていたこの区間。
消雪パイプの水で茶色に染まったこの道は、いったいどこまで続くのだろう。
街道のこの辺り、いくつか気づきがあった。

片貝地区にある筆塚の写真片貝地区にある筆塚

まず、長野県側からここまで、新潟県側でも「筆塚」を多く見かけたことだ。
使い古した筆を供養するために建てられたこの塚は、教え子たちが寺子屋の師匠の遺徳を偲んで建てることが多い。
いかに庶民教育が普及していたか、その証でもある。
『日本教育史資料』のなかに、江戸期の寺子屋および私塾の数の全国的な調査結果が掲載されている。
ダントツは長野県の1,466(寺子屋数1,341、私塾数125)で、全国47都道府県の8.6%を占めている。
これに対し、新潟県は90(寺子屋数63、私塾数27)、全国総数の0.53%でしかない。

( 参照: https://seesaawiki.jp/japanese-history/d/%BB%FB%BB%D2%B2%B0%A4%CE%BC%C2%C2%D6

それなのに、この北国街道沿いでは、新潟県の他地域とは事情が異なり、庶民教育が熱心に行われていたようだ。
信濃と越後で地域は違っていても、この街道が、文化や気風をつないでいたのだ。

道端の馬頭観音の写真道端の馬頭観音

次に、馬頭観音の石仏をよく見かけたということ。
この観世音菩薩は、仏教の「六道」のうち、「畜生道」に迷い込んだ衆生を救う仏様のことで、運搬手段として馬をよく使った街道ではよく見かけるものだ。珍しいものではない。
けれど、この辺りでは、とりわけ多く目についた。
それほど馬が普及していたこと、そして馬による交易が盛んだったことの証だろうし、気候や道の過酷さのせいで、馬が「行き倒れ」になることが多かったのだろう。
こうしてしっかり石仏を建てて供養しているところを見ると、馬に対する愛情の深さがしのばれるようだ。

豪雪地帯ならではの家の造りだの写真豪雪地帯ならではの家の造りだ

目新しく映ったのが家の造りだ。
多くの家が、傾斜の急な屋根をもち、三階建てで、その一階部分だけはセメントで堅固に施工してある。
「高床式落雪住宅」あるいは「克雪(こくせつ)住宅」と呼ぶらしく、雪下ろしをしなくてもよいように、また、一階が雪に埋もれても大丈夫なように、設計されているという。
世界でも有数の豪雪地帯ならではの建築様式ということで、南国育ちの僕にとっては興味深かった。
一本の道を歩いているだけで、その地域の様々なことに思いを巡らすことができるものだ。

ここから松崎宿だの写真ここから松崎宿だ

「此れより松崎宿」、案内柱が田んぼのカーブで唐突に現れた。
松崎宿とその先の二本木宿は、2kmしか離れていない。
僕には、どこまでが松崎宿で、どこからが二本木宿なのか、そしてどこが宿場の中心なのかがわからないほど、この二つの宿場町は一体化していた。
両宿は、月の前半を二本木宿、後半を松崎宿が担う「合宿(あいしゅく)」で、それぞれ小さな宿場とはいえ、農民たちにとっては現金収入を得るための大切な稼ぎ場だったという。

妙高はねうまラインの列車が通る写真妙高はねうまラインの列車が通る

もうとっくに秋になったというのに、あちこちで草刈機の音がする。
この夏の間にいったい何度草を刈ったのか、おそらくこれが最後の草刈りになるのだろう。
風が運んできた刈りたての草の匂いが、夏の終わりを告げている。
遠くから甲高い汽笛の音がして、やがて丘の道から見渡す風景のなかに、2両編成の列車が現れた。
えちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン。
その名にふさわしく、童話の絵本に登場しそうな車両が、田園風景の中を走り抜けていった。

松崎宿の街並みの写真松崎宿の街並み

下りの坂の前方から、学校帰りだろうか、中学生くらいの男の子がひとり、自転車を立ちこぎして登ってくる。
意志の強そうな真剣な顔つきで、ペダルを踏みしめながら。
田舎道を歩いていると、ときどきこういった大人びた子どもを見かけることがある。
きっと物心つく頃には、家庭や地域社会の中でなんらかの役割を与えられて育ったのだろう。
自転車を漕ぐ息の乱れを整えながら、律儀にも「こんにちは」と挨拶して通り過ぎていく。
振り返り、黙々とこぎつづけるその後ろ姿を、清々しい気分で見送った。
あの子の将来が楽しみだ。

本陣として使われた安楽寺の写真本陣として使われた安楽寺

いつのまにか二本木宿に入っていたらしい。
「二本木本村上」と書かれた、バス停ならぬ「乗合タクシー」の停留所名で、そのことを知った。
脇道の奥に、菅笠に似た面白い形のお寺が見える。
「浄土真宗本願寺派・竹田山安楽寺」
松崎宿も二本木宿も特に本陣は設けず、必要になった場合は、この寺が本陣代わりとなった。
合理的だとは思うが、もしここを利用する藩と宗派が違う場合はどうなるのだろうか。
あるいは、この浄土真宗本願寺派が、北陸ではそれほど圧倒的だということか。
庫裏には上段の間が設けられていて、加賀藩主前田家の殿様が休息したということだ。

明治天皇二本木御小休所の写真明治天皇二本木御小休所

白山神社の隣に、「明治天皇二本木御小休所」の石碑がある。
明治11(1878)年9月11日の朝、関川を出立した明治天皇は、ここで小休止した。
たいていは本陣でお休みになるものだが、お寺が本陣では具合が悪かったのだろうか。
御巡幸の前に下見検分したのが勝海舟、実際の御巡幸には、岩倉具視、徳大寺実則、大隈重信、大山巌という面々のほか、800人余りが付き従ったという。
遠くまで見通せる下りの道をずらりと行列が進む様は、さぞ壮観だったことだろう。
ちょうど今頃の季節のことだから、御一行も同じように涼しい風を感じながら北国の初秋の風景を眺めていったのか。

緑がまぶしい写真緑がまぶしい

学校帰りの子どもたちの写真学校帰りの子どもたち

時刻は4:30pm、小学生たちがふざけあいながら仲良く下校していく。

二本木駅の手前で踏切を渡る写真二本木駅の手前で踏切を渡る

ぐんぐんと坂道を下っていった先にある二本木駅で一休み。
静かな町は、それだけで旅情をくすぐる。
駅前の街灯に桜の装飾があしらわれている。
全長3.5kmの桜並木がこの町にあるらしい。
春の景色を思い浮かべながら、初秋の道を歩き続けた。

( 参照: 上越タウンジャーナル

二本木駅前の通りの写真二本木駅前の通り

日本海だ!の写真日本海だ!

日本海が見えた。
いや、はたして見えているのか。
陸と海、海と空の境界がかすんで、ただの平野が続いているようにも見える。
けれど僕は、それを日本海だと思うことにした。
南国の青く輝く海ではなく、かすかに青みがかった曇り空のようなグレー。
それはまさしく、日本海のイメージそのものだった。

藤沢の一里塚の写真藤沢の一里塚
小出雲坂の写真小出雲坂

道の東側に「藤沢の一里塚」がぽつんと残っている。
西側の塚は、第二次世界大戦後の食料増産のため開墾され、消滅してしまったらしい。
やがてその先に、「小出雲坂(おいずもさか)」が現れた。
「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたをなんじ忘られよ」と里歌に歌われていたそうだ。
今では新幹線を使ってあっさり行けてしまう距離を、昔は遥か遠くに感じていたことを改めて思う。
「恋人よ僕は旅立つ 東へと向かう列車で」
僕の子ども時代でさえ、そんなふうに歌われていたくらいだから。

社平坦な道に変わっていく写真平坦な道に変わっていく

坂を下りると、街道は平坦な平野の道へと変化していく。
長い長い下り道が終わり、ようやく歩きやすくなった。
ああ、早く宿に着いて浴槽の中で脚を伸ばしたい。

新井宿に入った写真新井宿に入った
新井宿の街並みの写真新井宿の街並み

5:50pm、新井宿に入った。
すっかり日は落ちて、街灯にあかりが灯っている。
新井は、近隣の山々からいく筋もの河川が流れ込む平野部にあり、交通の要衝として早くから開かれ、上杉謙信の時代からすでに伝馬・宿送が行われていた。
昔の「新井市」は、2005年に近隣の自治体と合併して「妙高市」となり、市庁舎がここにある。
宿場の中心から歩いて20分、今晩の宿に到着する。
8:00am に野尻宿を出てから、所要10時間、歩行数47,000歩、距離にして36kmの歩き旅だった。
旅装を解き、大浴場へとまっしぐら。
浴槽で疲労を解き放ち、芯まで温まる湯と、旅の充実感に浸った。

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