【第71回】みちびと紀行~下田街道を往く(大仁) みちびと紀行 【第71回】

修善寺の町を出て、国道414号線を狩野川へと歩いていく。
なんだ、あれは?
ユニークな狛犬を見かけて、ちょっと寄ってみることにした。
境内の説明板には、ここは八幡神社で修善寺村の氏神であること、八幡神に加え、二代将軍源頼家公を合祀していることが書かれている。
鎌倉幕府とつながりの深い神社だったのだ。

本殿の隣に、小さな祠がある。
説明板によれば、女性の陰部に似た自然石を御神体としているそうだ。
修善寺滞在中の北条政子が、「下」の病に罹かったとき、神主が夢のお告げを受け、この石を献上し奉納すると、たちまち病気が治った。
朱色の祠の幕の内側に、その御神体があるらしい。
ニクいことに、下の部分が「チラ見せ」だ。
「見たい」という欲求をかき立てておきながら、「見てはならぬ」という無言の圧力。
幕を上げるのに、スカートめくりをするかのような罪悪感が襲う。
自然石を前に葛藤する滑稽な自分。
なにも触れずにその場を去った。


それにしてもこの本殿の狛犬、実にユニークだ。
俳優の田辺誠一が狛犬を彫ると、こんな感じになるのかも知れない。
調べると、宝歴13(1763)年の作。
江戸期の田沼意次時代が到来するのはこの直後だから、結構古い。
そんな時代に、こんな現代ポップアートにありそうな「ぶさかわいい」狛犬を作るのだから、日本人の美的センスというのは、やはり深いところで不変なのだ。

狩野川に突き当たった。
赤い修善寺橋のたもとに、高さ2m、アフロヘアーのようなお地蔵様がいらっしゃる。
「横瀬愛童将軍地蔵」といって、亡くなった二代将軍頼家のために、里の人が作ったということだ。
頼家は生前、鎌倉に残した愛児のことを思いながら、この地の子どもたちをたいそうかわいがったと伝わっている。
独断専横の人物として描かれることの多い頼家も、里人にとっては気さくで優しい人物だったのだろう。
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狩野川の堤防の上を歩いていく。
ウォーキングに勤しむご年輩、斜面をちょこちょこかけ降りる園児たち。
平和な風景が続く。
このあたりは昭和33(1958)年の狩野川台風で、甚大な被害を受けた。
土石流で流された大木や石が修善寺橋の橋桁に引っかかり、ダムのように水を堰き止め、橋の崩壊とともに「ダム」が決壊し、この地域に濁流が押し寄せたというのだ。
その後の放水路や堤防の建設によって水害の脅威も減り、今はのどかな川景色。
川沿いの平和は、有事を想定した予防策の上に成り立っている。
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ショッピングモールの先で、県道129号・韮山伊豆長岡修善寺線に入った。
今日の宿は、伊豆長岡にとっている。
Googleマップ上では、修善寺から約10km。
昨日、天城を越えて、36km歩いたことを考えれば、今日は楽勝だ。
旧街道の面影が残る道を、のんびり歩いていく。

瓜生野という地名の場所で、山の斜面に要塞のような廃墟があるのが見えた。
近づくと、「大仁金山」と看板がある。
1973年に閉山されるまで、かつてここでは金鉱石が採掘されていた。
江戸時代初期の慶長年間、伊豆では、瓜生野、土肥、湯ヶ島、縄地など、金山が盛んに開発され、佐渡に次ぐ産出量を誇っていたらしい。
金山奉行・大久保長安の活躍によるものだ。
長安は武田の遺臣で、徳川家康に取り立てられる前は、甲州金の開発にも辣腕をふるった。
関ヶ原の戦いの後で、伊豆のみならず、佐渡金山、生野銀山、石見銀山が徳川の直轄領になると、そのすべてに長安が派遣される。
260年間続く江戸幕府は、彼が開発した鉱山による、莫大な富の基盤の上に築かれた。
まさに「金の卵を産むガチョウ」のような人財だ。
家康は、武田の遺臣を積極的に重用することによって、信玄から、交通網、防災インフラ、新田開発、鉱山開発など、具体的な知識・技術の遺産を引き継いでいたのだ。
金の採掘が始まると、全国から伊豆へと、多くの人々が集まった。
そして、採掘が下火になると、残った者の多くが伊豆の新田開発に精を上げた。
伊豆に人々が流れ込み、その人々が伊豆を作っていく。
鉱山労働者、炭焼き市兵衛、頼朝、頼家、文覚、蘭渓道隆、北条早雲、数多の文豪、そして現代の移住者たち・・・。
伊豆がよそ者に寛容な地域であり続けたのは、歴史的な流罪地だっただけでなく、こうした他所からの人々が、伊豆の産業・文化を開花させてきたからなのかもしれない。

大仁橋を渡って狩野川の右岸に行く。
ロッククライミングの地として有名な城山(じょうやま)の向こうに、富士山がちらりと顔を出した。
ようやく富士山が見える場所まで来たのだ。
下田街道歩きの終わりも近い。
ふとした寂しさが胸をよぎっていく。

大仁橋を渡り終えると、「読売巨人軍・長嶋茂雄ロード」という説明板に出会った。
「伝説の大仁山ごもり」と題して、説明書きがある。
現役時代の長嶋は、昭和42(1967)年からの7年間、正月から球団キャンプが始まるまでの間、この大仁町に滞在し、自主トレーニングをしていたという。

僕には、長嶋のプレーを見た記憶がなく、気づけば既に監督をやっていたから、正直な話、あまり印象には残っていない。
鮮やかに記憶にあるのは、むしろ王貞治の方だ。
けれど、長嶋はずっと球界の偉人であり続けたし、それは、世間の人々も至極当然のこととして受け止めていたように思う。
まず長嶋のことを嫌いな人にはお目にかかったことがない。
まさに国民的な英雄なのだ。


長嶋選手は、丘の上にある大仁ホテルに滞在し、毎朝、狩野川沿いを走って城山に行き、登頂することを日課にしていたらしい。
その自主トレ・ルートの一区間を歩いていく。
(参照:大仁地区イラストマップ: https://izunotabi.com/wp-content/uploads/2015/03/oohitomap2020.pdf )

大仁ホテルまでの道は、結構な坂道だ。
坂の途中の説明板には、「長嶋氏が自主トレーニングでダッシュを繰り返していたとされる坂。(中略)栄光の陰に努力あり。」とある。

長嶋は、地元民に絶大な人気があったそうで、サインや写真撮影にも笑顔で気軽に応じ、「気さくで温かい人柄」として知られていたそうだ。
しかし、その陰で黙々と努力を重ねていたことが、この「長嶋茂雄ロード」を辿るとよく分かった。

長嶋茂雄に、元NHKアナウンサーの有働由美子がインタビューしたテレビ番組が、「ミスタープロ野球・魂の伝言」というタイトルで書籍化されている。
そこには次のようなやりとりがあった。
(有働)人知れず練習を積まれている、努力されている姿を、ファンの人たちにも見てもらってもいいのではないかと思うんですけど・・・。
(長嶋)いや。練習というものはね、やっぱり一人でやるものだと思いますよ。人前で、みんなに見せてやるべきことじゃないね。試合で活躍するところだけを見てもらえばいい。僕はそういう気持ちでやりましたね。
こんなに頑張っていますからって自分をひけらかしたり、そんなのいらないね。調子が悪い時とか、言い訳すると楽かもしれないけどね。しかし、そういうものを人に見せるとね、人間が安易になるよ。
(参照:「ミスタープロ野球・魂の伝言」p.124,125)
「大仁の山ごもり」は、長嶋選手のスランプの時期にあたる。
マスコミに嗅ぎつかれ、話題にはなったものの、基本はひとり、まさにこもって練習をしていたのだ。
いわゆる「ON時代」、「努力の王、天才の長嶋」と並び称されてはいたものの、長嶋にも秘した努力があったのだ。

坂を登りきり、大仁ホテルに着いた。
汗をふきながら、フロントに行って尋ねる。
「長嶋選手が昔ここに滞在していたと聞いたんですが・・・。」
ホテルのスタッフは慣れた様子で、ロビーの一画にある「長嶋茂雄コーナー」に僕を案内し、ビデオをまわしてくれた。

長嶋茂雄は、ホテルの敷地に「離れ」としてある「富士」という部屋に宿泊していたらしい。
雨の日でもないのに、部屋の中でバッティングの練習をしていたそうで、ホテル側が、なぜ部屋の中で練習するのかと尋ねたところ、「こんな高級な部屋でバッティングすれば、傷をつけてはいけないと、いやがおうでも緊張感がはしって、集中できるんだよ」と答えたという。
彼はホテルの人にこうも語っていたそうだ。
「僕らは皆さんに夢を売る商売。世の中の人のストレスを僕のハッスルプレーでスカッと晴らしてもらいたい。僕は皆さんの夢の代行者であるようなプレーヤーになりたい。」
そういえば、僕の子ども時代は、男の子に「将来なりたいもの」を尋ねたら、不動の一位は「野球選手」だった。
まちがいなく彼らはヒーローで、その彼らに僕らはあこがれていたのだ。

フロントの女性がまわしてくれたビデオは、息子の長嶋一茂がこの地を訪れ、父の自主トレと、幼き頃の自分を回想するという筋立てだった。
一茂は、昭和41(1966)年1月生まれだから、長嶋茂雄が大仁ごもりをした時は、彼が2歳から9歳までの頃だったことになる。
まだ幼かった一茂は、ある日、「自分もパパの練習について行きたい」と自分から言い出したそうだ。
長嶋茂雄はそれを承知し、トレーニングの日課となっている城山登山にも一茂を連れて行った。
その日は、大野選手も同行していて、彼の談話によれば、次のようなことがあったという。
父の後についていた一茂が、登山道でバランスを崩して崖から転落してしまった。
急いで大野が助けようとすると、茂雄は鬼の形相で言い放った。
「自分で言い出したことは自分で責任をとらせる。」
じっと待つ茂雄。血だらけになって這い上がる一茂。
ようやく、息子が這い上がってきた。
すると一転、茂雄は優しい父となり、「帰りはごほうびだ」と、一茂を背負って山を下りたということだ。
長嶋茂雄の厳しさと優しさが表れているエピソードだ。
僕らの世代は、ヒーロー長嶋に、日本の父親像をも重ねていたのかもしれない。

一茂はある時、父からこんな手紙を受け取ったそうだ。
「一茂、パパよりも大きく、ママよりも大きく、富士よりも大きくなるのだ。」と。
大仁ホテルの庭園から見る富士山は格別だ。
長嶋茂雄は、この富士山に、どんな思い入れがあったのだろうか。
先述の本、「ミスタープロ野球・魂の伝言」のインタビューにある、父・利(とし)とのエピソードに、そのヒントを見つけた。
「親父は最期に『野球をやるからには、一番になれ。富士山のようになれ』と言って息を引き取った。『富士山になれ』という言葉はね、僕の高校時分から、よく言ってましたけども。死ぬ間際にも同じことを言ってね。」
(参照:「ミスタープロ野球・魂の伝言」p.56)
なんと、この「富士山のように」という言葉は、長嶋の父から息子へとバトンのように渡されていたのだ。
雪を抱いて、気高くそびえる独立峰、富士山。
長嶋茂雄の生き方の美学は、このフレーズに集約されているのだろう。

時刻は1:00pm。
大仁ホテルのある丘からふもとに降りて、町の中心、ときわや食堂で昼食をとる。
繁盛した店の中に、運良く一人分の席があった。
隣の席の人が食べている、ボリュームあるしょうが焼き定食が、「ザ・定食」という感じで美味そうだ。
同じものを注文して待つ。
店内を見渡すと、明らかに地元の常連さんばかりの中で、その隣席の男女は雰囲気が違った。
体格が良く、若々しい。
食事を終えて彼らが席をたつと、店の人が「いつもありがとう、頑張ってね」と見送っていた。
彼らは片方が義足だった。
その後のお店にいた人たちの会話から、彼らがパラリンピックの自転車競技の選手で、この町で合宿中であることを知った。
地元の人びとが彼らをそっと見守り、温かく応援していることが、店内の雰囲気からよく伝わってきた。
長嶋選手も、そんなところが気に入って、この大仁に、引退する年まで来たのだろう。
気さくなお店の雰囲気と、香り立つしょうが焼き定食に、心が満たされていった。



駿豆線の線路わきの道を歩いていく。
今日は、日が落ちる前に宿に着けそうだ。
再び狩野川を渡り、左岸の堤防を歩いていく。
僕を先導するように、とんびが円を描いて飛んでいた。

3:00pm、伊豆長岡の宿に着いた。
修善寺からここまで所要5時間、歩数23,000、距離にして17.6kmの歩き旅だった。
明日は朝からこの町をぐるりと巡って、夕刻には下田街道のゴール、三島大社にたどり着く予定だ。
明日の強行軍に備えて温泉に浸かりに行くと、富士山が姿を現した。
「ここまで歩いて来なさい。待っているから。」と言っているかのように、気高く、そして優しく。