【第51回】みちびと紀行~甲州街道を往く(高尾~小仏) みちびと紀行 【第51回】
10月5日8:30am、京王線高尾駅に着いた。
前回、府中から甲州街道を歩き、この地点でいったん旅を終えたのは8月3日のことだった。
その後、コロナ感染の拡大で緊急事態宣言が発出され、高尾から先の「県境越え」を自粛して約一ヶ月半、宣言はようやく解除された。
今日は堂々と神奈川県側に越境するのだ。
予想最高気温は29℃、オリンピックもパラリンピックも、いつの間にか終わっていたけれど、あの真夏の歩き旅は、切れ目なく続いているようだった。
京王線高尾駅からJR高尾駅の構内を経由して駅の北口に出る。
甲州街道はそのすぐ先だ。
これまで歩いてきた八王子方面を眺めると、高尾駅までずっと続いてきたイチョウ並木が、少し黄色くなっている。
さあ、今日はここから、与瀬宿があるJR相模湖駅をめざして歩いていこう。
距離は約12km、いつもよりは短めだけれど、難所の小仏峠がひかえている。
何ごとも余裕を持っておくに越したことはない。
日本橋から八王子に至るまで、武蔵野の平らな土地を見慣れてきたせいか、高尾から先、山が迫る風景が新鮮に映る。
国道20号を進み、両界橋でJR中央線のガードをくぐった先、「西浅川」の交差点を右に入る。
旧甲州街道は、ここから「東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線」として続いていく。
7分ほど歩くと、駒木野宿に着いた。
「駒木野宿跡」の碑の他には、本陣跡らしきものもなく、ここが宿場町であったことが想像つかない。
ここには「小仏関跡」の碑があって、説明板によれば、戦国時代に小仏峠に設けられた関所が、やがて麓に移され、徳川幕府になってから、この場所で甲州街道の関所として使われたとのこと。
厳格な関所だったらしく、関所の通過は、朝の薄明が始まる「明け六つ」から夕方の薄明が終わる「暮れ六つ」まで。
通行手形を番所の前にすえられた「手形石」という石の上に並べて、その間旅人は、「手付き石」というもう一つの石に手をついて、許可が得られるのを待ったそうだ。
ちょっと移動するにも、こんなに厳格な制限を課した時代もあったのだから、近ごろの「自粛」という名の移動「制限」もまだまだかわいいものだと思うべきか。
いや、素直に思えたことは、そういうことではなかった。
これほどの煩らわしさにもめげず、根気よく移動をした旅人への共感。
そして、そもそも「移動すること」は、人類の誕生に根ざした本質的な欲求なのかもしれないという、ちょっと大げさな感慨だった。
右手は上方に中央自動車道を望み、左手は川のせせらぎを聞きながら、のどかな里の道を歩いていく。
やがて、右遠方に八王子ジャンクションが現れ、高尾山を貫く圏央道の高架をまさにくぐろうとする手前に、ひとつの碑があった。
「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」
終戦直前の1945(昭和20)年8月5日、この地で起こったアメリカ戦闘機による旅客列車襲撃事件の碑だ。
死者は、警視庁の調べでは52名、ほかに133名が重軽傷を負ったということだ。
当時、長野に向かう列車はすし詰め状態。
機銃掃射を受けながら乗客は身動きがとれず、混乱を極めたらしい。
その列車には、たまたま筑摩書房創業者の古田晁が乗っており、近くにいた人物から吹き出した血が、彼が車内で目を通していた原稿用紙に付着した。
その「血染めの原稿用紙」は、塩尻市の古田晁記念館に展示されている。
機銃掃射をした米軍機は、遠く硫黄島から飛来したP51ムスタングだという。
硫黄島の戦いか、、、。
米軍の戦略的重要拠点だった硫黄島に立てこもり、「日本本土への侵攻を1日でも遅らせる」という目的をもって戦い散っていった、日本の兵士たちを思わずにはいられなかった。
彼らが守り抜こうとしたものは、硫黄島からであればぎりぎり飛来できた米軍戦闘機によって、この地と結ばれている。
慰霊碑は、畑の道をのぼっていった線路脇の山の斜面に、ひっそりとたたずんでいる。
手を合わせる僕の前方を、特急あずさが風のように通り過ぎていった。
圏央道の高架をくぐってすぐ、「蛇滝水行道場入口」の案内柱があった。
そういえば、僕はこれまで滝行の場所を見たことがない。
この機会にちょっと見ておこうと寄り道することにした。
滝行場への道は、すぐさま木々に覆われはじめ、神秘の森に分け入っていくようで、気分が盛り上がる。
途中、苔むした石鳥居があって、「千代田稲荷大神略縁起」と墨で書かれた木板がかかっていた。
そこには、太田道灌が千代田城(のちの江戸城)を築城した時から守護神として城内に勧請されていた神様を、明治維新の際に、信仰厚き女官(滝山)がここに移した、とある。
滝山とは、NHK大河ドラマ「篤姫」で稲森いずみが名演したあの人物のことか。
かつて江戸の中心に長いこと鎮座していた神様は、この深い森に密かに遷座されているのだ。
それはあたかも、ろうそくに灯る火が消えないように、そっと静かな場所に移されたかのようで、尊く清らかな行いに思えた。
滝行の場所に来た。
泊まりで何日もここに籠もるのだろうか、宿泊施設らしきものもあった。
さあどんなところかと思いきや、結界が張られて、そこから先へは入れない。
一見はかなげに思えるしめ縄と紙垂(しで)の威力といったらない。
「おのれはけがれなき心をもってここに参ったや否や?」
無言の圧力に、「はいはい、単なる好奇心でございます」と早々にあきらめる。
ネットで調べたら、わりと手頃な料金で滝行をさせてくれるようなので、改めてしっかりと目的意識をもってからここに来ようと、山を降りていった。
甲州街道は、JR中央線と中央自動車道にぴったり寄り添って続いていく。
浅川国際マス釣り場の水しぶきに、たくさんの魚が集まっているのが見える。
京王バスの終点「小仏バス停」を過ぎた先に、無人販売があった。
好都合なことに梅干しが置いてある。
さすが分かっていらっしゃる!
登山をする際のうってつけのおやつ、1パック200円の梅干しをありがたく購入する。
アスファルトの舗装路がはやがて途絶え、登山道に変わった。
そのすぐわきに、ちょっとした滝行をする場所がある。なんとも涼しげだ。
但し、「帰りがけや来たついでにする行は滝行になりません」との注意書き。
滝行の敷居はあくまでも高い。
すでに汗まみれになっている身体を打たせたい衝動を抑えつつ、山道に変化した甲州街道を進んでいった。