1. HOME
  2. みちびと紀行
  3. 【第49回】みちびと紀行~甲州街道を往く(府中~日野)

【第49回】みちびと紀行~甲州街道を往く(府中~日野) みちびと紀行 【第49回】

けやきの苗木を寄進した源義家の像の写真けやきの苗木を寄進した源義家の像

8月3日7:53am、京王線府中駅に着いた。
昨日、真夏の太陽の下、41km歩いた疲れは、ぐっすり眠ったせいか、もう残ってはいない。
今日はここから、高尾駅をめざして甲州街道を歩いていく。

駅からまっすぐ、けやきの並木通りを歩いて、大國魂(おおくにたま)神社に向かう。
この並木は国の天然記念物になっていて、1062年、源頼義・義家父子が、「前九年の役」で奥州を平定した戦勝報告のために大國魂神社に寄り、けやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
通りには、東京五輪の旗に並んで、精悍な若武者姿の源義家像が立っていた。

大國魂神社の境内を通って駅に向かう人々の写真大國魂神社の境内を通って駅に向かう人々

大國魂神社の境内は、府中駅への通勤路になっていた。
鳥居に立つと、クールビズの男女が、社殿のある方角から早足でやってくる。
そんな人の流れに逆行して、ただ一人、社殿に向かって歩いていく。

ここに武蔵国の国府が置かれた写真ここに武蔵国の国府が置かれた

大國魂神社は、第12代景行天皇の御代に創建された古社で、645年の大化の改新以降は、ここに武蔵国の国府が置かれた。
社殿は古社特有の風格があり、朝の空気も手伝って、清々しい気持ちになる。
社殿に向かって左手では、コロナ禍封じのための紙人形を使ったお祓いが行われていた。
東京都と埼玉県の全域、そして神奈川県の一部をその領域とする、武蔵の国の守り神として、この神社はその役割を果たそうとしている。

鎌倉街道との交差点「札の辻」の写真鎌倉街道との交差点「札の辻」

大國魂神社の境内を出ようと鳥居に向かって歩いていると、ふいに雨が降ってきた。
「まあよい、濡れてもいいや。」
そのまま雨に降られながら甲州街道を西進する。
鎌倉街道との交差点、「札の辻」の高札場に着く頃には、雨があがってきた。
空気がひんやりとして、気持ちよい。

高安寺の境内を奥に進んでいく写真高安寺の境内を奥に進んでいく

札の辻から3分ほど歩くと、足利尊氏が再興したという「高安寺」があった。
何か発見できそうな気がして、境内の奥に進んでいく。
ずいぶんと奥行きがあって、大きなお寺だ。

高安寺の境内に秀郷稲荷があった写真高安寺の境内に秀郷稲荷があった

説明板では、かつてここに、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館があったという。
その館跡が、一時期、見性寺というお寺になり、やがて足利尊氏が全国に「安国寺」を建立した際に、武蔵国に作ったものが、この高安寺だということだ。
秀郷は、平将門を追討した功績で、下野・武蔵の二カ国の国司に任ぜられた。
田原藤太(たわらのとうた)というもうひとつの名前では、近江の三上山の大百足退治の伝説を持つ人物だ。
境内の奥に「秀郷稲荷」がひっそりあった。
そして、さらに奥には、「弁慶硯の井戸」があると、案内標識が示している。

男性が、弁慶硯の井戸の周りを清掃していた写真男性が、弁慶硯の井戸の周りを清掃していた

「弁慶硯の井戸」のいわれは、鎌倉入りを許されなかった源義経が、やむなく京都に帰る途中、しばらくここにとどまり、弁慶たちとともに、赦免祈願のため大般若経を写した。その際に、この井戸の水を使ったということだ。
林の中を進んでいくと、先客がいた。
僕より少し若い男性が、石碑に水をかけてお線香をあげている。
聞くと、最近このあたりに引っ越して、近くの旧跡を訪ねながら、その周囲を清掃しているということだ。
その行為が尊いと感じられて、そのことを伝えると、「いやぁ、歴史って大事だなと思って。歴史についてもっと知らなきゃならないと思い始めたんです。」とおっしゃる。
僕らが今あるのは、これまで辿ってきた歴史の結果だから、その歴史をまずはとことん知ることが大事なんだと。
「我が意を得たり」と意気投合して、二人の男は、しばらく井戸のわきで、ヤブ蚊に刺されながら歴史のよもやま話をしていた。 なるほど。僕は、この空間的な道を歩いていただけでなく、同時に、過去から現在に続く「時の道」をも辿っていたのか。
この人にはきっと、街道歩きの楽しさがわかってもらえるだろうな。

お盆の迎え火の跡と精霊馬があった写真お盆の迎え火の跡と精霊馬があった

旧甲州街道は、本宿町で、再び車通りの激しい国道20号に合流した。
歩道すれすれに走っていく車を横目で見ながら進んでいくと、お盆の迎え火の跡を見つけた。
もうすぐお盆か。
キュウリの馬とナスの牛が、ノスタルジックな気分にさせる。

この古い家は見覚えがある写真この古い家は見覚えがある

そういえば僕は、今から30年ほど前、この近くの独身寮に住んでいた。
初めて手に入れた車、いすゞジェミニに乗り、よくこの混雑する道を仲間と走ったものだ。
思い出したら、この通りの風景のどこもかしこも見覚えがあるような気がしてきた。

一生懸命拝んでいた写真一生懸命拝んでいた

懐かしい気持ちで進んでいくと、やがて「谷保天満宮」が現れた。
湯島天神、亀戸天神と並び、関東三天神のひとつだ。
野暮な人のことを「野暮天」と言うのは、この「谷保天満宮」が語原らしい。
谷保天満宮の由緒は、菅原道真公が太宰府に流罪になった際、この地に配流された三男の道武が、父の像を彫り、これを祀ったのが始まりと言われている。
受験シーズンでもなく、平日の午前中なのに、意外に参拝客がちらほらいた。
中学生だろうか、男の子がきちんと儀礼にのっとって柏手を打っている。
その真摯な姿になぜかじぃんときた。
「早くコロナ禍がおさまって、楽しい学生生活を取り戻せますように」
彼のあとでお参りしておいた。

日野の渡し場跡の写真日野の渡し場跡
夏空が広がっていた写真夏空が広がっていた

日野橋の交差点を過ぎると、旧甲州街道は、しばらく複雑なルートを辿る。
錦町下水処理場の信号を渡って小道に入ると、「日野の渡し場跡」があった。
大正15(1926)年に日野橋が架かるまで、旅人は、ここから舟を使って多摩川を渡っていった。
土手を見上げると、草原の向こうに、夏空が広がっていた。

立日橋を渡る、上は多摩モノレールの写真立日橋を渡る、上は多摩モノレール

時刻は11:20am、そろそろおなかがすいてきた。
日野宿に入って、何か美味いものを食べよう。
勢いを増す太陽に追い立てられるように、立日橋(たっぴばし)を渡っていく。
右手には、多摩モノレールの高架の向こうに奥多摩山系の青い稜線がくっきりと見える。
左手には、大きな団地と、そのはるか先に横たわる多摩丘陵。
下方は、キラキラ光る水面と、水鳥たち、釣り糸を垂れる親子。
この風景の中をひとり、西へ西へと歩いていった。

ページトップ