【第14回】みちびと紀行 ~東海道を往く(戸塚宿~平塚宿) みちびと紀行 【第14回】
チャレンジ2日目、戸塚宿から小田原宿をめざして
昨日、午前4時に日本橋を出発した僕は、江戸時代の旅人と同じように、夕刻に戸塚にたどり着いた。
街道歩きの経験は、僕もこれまで積んできたけれど、時間的にも体力的にも、これ以上先に行ける状態ではない。
江戸時代も同じく、宿場に泊まれば、宿賃もかかるので、費用を削るためには、1日に歩く距離を長めにとったであろうことは想像はつく。
けれど、マラソンと同じで、時間や体力の配分をしたであろうから、戸塚宿、あるいは一つ手前の保土ヶ谷宿は、1日目のゴールとして妥当だと納得した。
16年前に東海道を歩いた時は、1日目はここまで辿り着けずに、手前の横浜で宿をとったから、とりあえずその時の僕を超えたことにはなる。
ただ、僕の心は晴れなかった。
たぶんそれは、16年前に、体力と気力を振り絞って、足を引きずってぼろぼろになりながら歩いたのが、2日目の小田原宿までの道のりだったからだ。
あの時に小田原宿に到達したのは、夜の9時過ぎだったから、今回、日暮れまでに小田原宿に着けば、江戸時代の旅人と同じ旅をしたことになり、16年前の僕を超えたことになる。
2日目の今日は、負けられない「一戦」だ。
昨夜は、横浜駅に隣接した高層ビルの14階にあるスパで、疲れた体を念入りに癒したので、体調は万全だ。
早朝の電車に乗り、横浜から昨日のゴールの戸塚まで戻った。
今日は、この戸塚から小田原までの約40kmの道のりを歩いていく。
戸塚宿は、本陣は2つ、脇本陣は3つ、そして旅籠は75軒と、東海道五十三次の中では10番目に大きな宿場だったらしい。
けれど、当時を思い起こせるものは、あまり残されてはいなかった。
想像を巡らせながら、車通りの激しい道を歩いていくと、空に電線が交差する向こうに、富士山がうっすらと現れた。
なんと美しいボディライン!
富士山が女神の山だということが納得できた。
江戸時代の旅人も、この場所で、しばらくうっとりとしたことだろう。
藤沢宿の遊行寺と一遍上人
車道と歩道を親切に仕切ってくれている並木道を抜け、その先にある坂道を下っていくと、遊行寺に着いた。
正式名は、「藤澤山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん せいじょうこうじ)」、時宗の総本山だ。
総本山というだけあって、お寺も威厳があって立派だ。
ただ、あまりにも人がいない・・・。
時宗は、鎌倉仏教6宗として、浄土宗、浄土真宗、法華宗、曹洞宗、臨済宗と並び称されていたし、調べてみると、時宗の信者数は、平成28年のデータでは約5万9千人いたらしいから、もうちょっと参詣客がいてもおかしくない。
それが引っかかって、時宗、そして開祖の一遍上人について、さらに調べてみた。
そして、調べていくうちに合点がいった。
つまるところ、時宗の教えは、あらゆる執着を「捨てる」教えであり、一遍上人は、究極の「断・捨・離」人間だったのだ。
一遍は、別名「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれ、「徹底的に捨て去ること」をつらぬいた。
ある人が一遍に、「あなたが亡くなった後、跡目を継ぐ者をどのように定めるのか」と尋ねたところ、「跡目などはない。そんなもの知るか。私の後には、全ての人たちが念仏を唱える状況が残っているだけだ。南無阿弥陀仏」と答えた、と弟子たちが残した一遍上人語録にあるらしい。
そして、自分が死ぬ間際には、いっさいの記録・経典を焼き棄てさせ、遺体は「野に捨ててけだものにほどこすべし」と遺言を残したという、最強の「ロックな人」だったのだ。
後継者がいない、そしてそもそも経典のような有形のものがない。
「これでは時宗という宗派が残る方が難しいだろうな」と、正直思った。
ところが、意外や意外!
鎌倉中期から室町時代にかけては、ライバルの浄土宗や真宗をはるかに凌ぐ勢いで、一遍の「念仏踊り」は、大名から百姓、浮浪者に至るまで、日本全土に広まっていったというから、ますます興味が湧いた。
そこでさらに調べてみると、時宗信徒の法名「阿弥号」を持つ者には、芸術家が多く、観阿弥、世阿弥、そして本阿弥光悦なども時宗信徒だったらしい。
おそらく、文字に起こした一切のものを捨て去り、「こころの赴くままに念仏を唱えながら無心に踊る」という行為は、純粋に感性が支配するものなんだろう。
言い換えれば、左脳の領域ではなく、右脳の世界。
理性で論理立てて考えるのではなく、感性が支配するままに踊り狂うことで、人智を超えたものを感じ取る。
こういった宗教は世界中にある。
まだ全ての人が文字の読み書きができなかった時代に、文字が支配する領域を徹底的に捨て去ることによって、仏の信仰に出会えた人は、数えきれなかっただろう。
それにしても、その功績に対して、今の遊行寺には寂しいほど人がいない。
僕の人生の中で、時宗の信者に出会ったことはなかったし、他の宗派に比べて組織的に布教しているようにも見えないし、このままで大丈夫なのかな?
そう思いながら、時宗の解説文を読み進めていくうちに、ある文章を見て、僕は目を見開いてしまった。
「時宗の踊り念仏は、盆踊りの始まりとなった。」
なんと!こんなに身近なものに、一遍さんの魂が受け継がれていたとは!
「おみそれしました」と、心の中で一遍上人に詫びた。
茅ヶ崎とサザンとラチエン通り
藤沢宿を出ると、旧東海道は、神奈川県道43号、44号となって西進し、四ツ谷交差点で国道1号線と名前を変えて西に延びていく。
車通りの激しい道を歩くのは少しうんざりするけれど、あの日本橋から始まるこの道が、人通りの寂しい道や、権太坂や、時には歩道橋の姿になってもなお、ひたすら西に続いていくことを思えば、なんとも面白くて、愛おしささえ感じてしまう。
茅ヶ崎に入ると、見事な松並木が現れた。
青空の中でギラギラと輝く太陽の光を遮ってくれて、本当にありがたい。
目に入りそうな汗をぬぐいながら、マンホールの蓋を見ると、烏帽子岩のデザインだ。
烏帽子岩 → チャコの海岸物語 → サザンオールスターズと、僕の連想がいったところで、ふと国道1号線に交わる道路の標識に目がいった。
「ラチエン通り」だ!
数あるサザンの曲の中で、僕の一番のお気に入りは、なぜか「ラチエン通りのシスター」だった。
呼べばすぐに会える
でも見つめるだけで もうだめシスター♪
この曲を初めて聴いたのは、僕が中学生の頃で、なんとなく切なくてノスタルジックなメロディーが、まだ行ったことのなかった湘南のイメージソングのように思えた。
ネットで調べてみると、この曲は、桑田佳祐が、このラチエン通りに住んでいたかつての交際相手のことを想って作ったものらしい。
彼女は今も、このラチエン通りを歩いているだろうか。
それにしても、「ラチエン通り」とはなんだろう?
中学生の頃から知っていた名称なのに、これまで一度も気にかけたことがなかったので、この機会に調べてみた。
ウィキペディアによれば、通りの名前は、ドイツの貿易商、ルドルフ・ラチエンが、昭和7年(1932年)に建てた別荘沿いの道であったことにちなむ、とある。
この道を南に、海岸に向かって行くと、烏帽子岩が正面に見えるらしい。
ちょっと寄り道したい気分になったけれど、昔の思い出に浸るのは、まだ後にしよう。
僕の目の前にあるのは、この今のチャレンジだ。
先を急いだ。
相模川を渡って、平塚宿へ
11:00am、相模川を渡る。
それまでの強烈な陽射しが消えて、しだいに雲が増えてきた。
雨の中を、小田原まで歩くのは、さすがにつらい。
「どうか天気がもってくれ」と焦り出して、心もち早歩きになった。
そして、これがいけなかった・・・。
右足に痛みを感じて、しばし立ち止まってしまう。
マズイぞ。
ここでやめるのは、簡単なようで簡単ではない。
なぜなら、それを決めるのは僕自身だから。
「焦るんじゃない」と自分に言い聞かせながら、足の関節や筋肉の具合を入念に確認する。
目前にある平塚宿、その次の大磯宿、そしてゴールの小田原宿と、あともう少し。
「あともう少しだけ頑張ってくれ!」と自分の足に言い聞かせる。
しばらく思案した。
そして、やっぱり僕の足は、前へ前へと歩み出す。